ディーゼルエンジンの歴史と技術
国産第一号の石油エンジンの完成
池貝は、1889年(明治22年)の創業期から幾多の苦難を乗り越えながら、日本の旋盤1号機を作ったフロンティア精神、伝統は発動機部門においても、かずかずの新製品を開発してきました。1895年(明治28年)、東京田町の新工場に移ると、池貝正太郎は、苦心研究を重ねて、手回し旋盤とプレーナーだけを使って自家用動力用として四馬力スチームエンジンを開発、工場に据え付けました。翌1896年(明治29年)には、ドイツ製品を見取って、原品に劣らない精巧な三馬力判堅形石油エンジンを製作、これも国産第一号の石油エンジンでした。その後、新しくガスエンジン、舶用石油エンジン(国産第一号)などが完成しました。
西郷隆盛と勝海舟の会見の地
1904年(明治37年)、ミーツ・アンド・ワイス式石油エンジンを購入し、これを模して焼玉式横型「T&I式」石油エンジンを製作し、新たに発動機部を設けて、その多量生産に乗り出しました。軍需に伴う需要や諸産業の飛躍的発展に伴い、大正4年9月、本芝四丁目の宅地約1,300坪を南部家より買い受け、ここに独立した発動機工場を新設しました。この工場敷地は、かつての薩摩藩浜屋敷で、慶応4年江戸城開城にあたり、西郷隆盛と勝海舟の会見の行われた場所だったのです。現在は三菱自動車工業本社となっています。またこの年、ロシア政府から6ヵ月の納期で、30馬力ガソリンエンジン585台の大量発注を受け完成輸出しました。この発動機工場は、その後、長らくわが国唯一のガソリンエンジン製作工場として、海軍形石油発動機の独占製作にあたり、また、陸軍、鉄道、逓信各省の需要にも応じてきました。記録的製品としては、航空用ベンツ形130馬力3台の試作、高速艇用デューゼンバーグ形360馬力10台、自動車用DI形12馬力10台などでした。
日本丸と海王丸のエンジン製造
1920年(大正9年)には、わが国最初のエアー・インジェクション・ディーゼルエンジンを製作。1926年(大正15年)わが国最初の内燃機関中最も進歩した無気噴油ディーゼルエンジンを完成しました。この無気噴油ディーゼル機関をSD形といい、SD形機関は、どんな粗悪な重油も完全燃焼し、しかも燃料消費欧米一流品に少しも劣らず、舶用、発電用、揚水用として軍部、鉄道、漁業界などわが国の産業動力界に供給し、多大な貢献をしました。そして、この技術に注目した国から特別に発注を受け、日本丸と海王丸のエンジンを製造しました。それは今でも現存し公開されています。
海上保安庁へディーゼル機関納入開始
昭和25年、戦後の復興期には人員整理ののち、「技術査察団」を組織して全工場の診断を行い、海外に視察に派遣するなどして新技術の吸収に努めました。内燃機関では、伝統的な技術の信用により、増産基調となり海上保安庁向け高速20型350馬力ディーゼル機関の納入が始まりました。
東京タワーに発電機を納入
1957年(昭和32年)には筒型4サイクル・エンジン、昭和33年にはわが国ではじめてのクランクレス・エンジンを完成しました。世の注目を集め、昭和34年には16V型2050馬力ディーゼル機関を完成しました。そして、昭和33年には、東京のシンボル「東京タワー」に850馬力ディーゼル発電機2基を納入しました。
ダイムラーベンツ社と技術提携
1960年(昭和35年)にはエンジンの高速、軽量化を要求する市場動向に応えるため、ドイツのダイムラーベンツ社と技術提携し、同社のMB820形、MB836形290~1,350馬力高速ディーゼル機関の国産化を進めることとなりました。
現在の池貝ディーゼル
ドイツ・マン社との販売提携
現在は、創業期からスタートした内燃機関の技術と蓄積を生かし、ドイツの世界的な自動車・機械メーカーMAN社との提携により日本でMAN社の高速舶用ディーゼルエンジンの総代理店として輸入販売、メンテナンスを行っています。主要販売先として長年の信頼を築きあげてきた海上保安庁様向けにMAN社の高速・軽量ディーゼルエンジンを巡視艇用に納入を行い、その後の技術サポート、メンテンスを行っています。
また、レジャー向け高速ディーゼルエンジンや発電機の販売も豊富な実績とノウハウを活かし、社会に貢献をしています。
日本丸と海王丸
日本丸・海王丸の誕生
1927年(昭和2年)、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が宮城県金華山沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事が発生しました。この事故が契機となり、文部省から1928年(昭和3年)大型練習帆船2隻の建造が決定されました。
設計はスコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社、建造は神戸の川崎造船所が担当し、第1船 は「日本丸」と名付けられ、 1930年(昭和5年)1月27日に進水、第2船は 「海王丸」と名付けられ、 同年2月14日に進水しました。この2隻の帆船には機関として池貝のディーゼルエンジンが積まれました。
航海
日本丸
1930年(昭和5年)にはミクロネシアのポナペ島へ初の遠洋航海を行いました。 その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していましたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海にて石炭などの輸送任務に従事しました。戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送しました。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では、米軍人や韓国人避難民の輸送といった特殊輸送任務に従事しました。1952年(昭和27年)、ようやく帆装の再取り付けがなされ、翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行いました。1984年(昭和59年)9月16日に引退するまで、約183万kmを航海し、約1万1,500名の実習生を育てました。その後、海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現・日本丸)が担っています。
海王丸
海王丸は1930年(昭和5年)の10月から12月にかけてミクロネシアのトラック島へ第一回遠洋航海を行っています。その後、日本丸と同様に太平洋を中心に訓練航海に従事していましたが、太平洋戦争激化とともに、石炭輸送や戦後は海外在留邦人の復員船として2万7000人の引揚者を輸送しました。1956年(昭和31年)春にはロサンゼルスに向け、戦後初の遠洋航海を行いました。その後、1960年(昭和35年)の日米修交百年祭参加遠洋航海、1961年(昭和36年)のロス-ホノルル間国際ヨットレース参加遠洋航海、1967年(昭和42年)のカナダ建国百年祭参加遠洋航海を始め、数多くの遠洋航海を行いました。1974(昭和49年)以降は老朽化が進んだため、遠洋航海の規模縮小を余儀なくされ、1989年(平成元年)9月166日に退役し海洋練習船としての役割は海王丸II世に引き継がれました。
ギネスに掲載(世界一のエンジン稼動年数記録)
日本丸のエンジンは、焼玉エンジンを作っていた池貝鉄工所(現 池貝)が開発の依頼を受け、池貝鉄工所の川口工場では何度も何度も試作品が作られました。やっと完成したエンジンは、日本初の舶用大型ディーゼルエンジンとなり、1984年9月まで日本丸の中で54年間にわたって活躍し、航走距離は、98万5475海里(182万5100㎞)にのぼり、世界一の稼動年数記録を打ち立てました。その稼動時間54年2月20日4時間7分は、船舶用エンジンとしては世界一と認定され、1988年版ギネスブックに記録されました。
日本丸と海王丸の今
日本丸
日本丸は今でも財団法人帆船日本丸記念財団によって大切に保管展示されており、一般の皆様に公開されています。この施設、日本丸メモリアルパーク(にっぽんまるメモリアルパーク)は、横浜市西区の横浜みなとみらい21地区にある公園(港湾緑地)となっており、展示施設として、帆船日本丸、展示ドック、海事博物館の横浜みなと博物館があります。日本丸展示ドックは国の重要文化財に指定されており、帆船日本丸の内部で実物の池貝製エンジンをみることができます。
海王丸
一方、海王丸は、財団法人帆船海王丸記念財団(現 財団法人伏木富山港・海王丸財団)によって、富山新港に係留され、1990年(平成2年)より一般公開を開始、1992年(平成4年)からは専用の係留・展示施設である海王丸パークが開場し、その地でいつまでも愛されつづけています。